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友達作りではじめたサッカー_呉屋 大翔


関西学院大学サッカー部からガンバ大阪へ 呉屋 大翔 のルーツに迫る 
 
Profile

所属 ガンバ大阪
背番号 23 ポジション FW 身長・体重 177cm/68kg
代表歴 13,14全日本大学選抜
経歴 けやきFC / ヴィッセル神戸Jrユース / 流通経済大学附属柏高等学校 / 関西学院大学

—いつ頃から、サッカーをはじめましたか?

小学校に入って1年生の時は何もやっていませんでした。同学年に友達がいなかったんですよ(笑)それでお母さんに、何かスポーツでもしたら?と言われていたんです。その時に、隣に住んでいた2年生の人がたまたまサッカーをやっていて、誘ってくれたのがきっかけですね。
 

—両親がサッカーをしていた訳じゃないんですね。

両親は全然スポーツやってないです。最初は本当に友達作りでサッカーを始めました。隣に住んでいた友達が野球を誘ってくれていたら、きっと野球をやっていたと思います。たまたま誘ってくれたのがサッカーだったんですよ。
 

—それが、けやきFCなんですね。試合に出始めたのはいつ頃からですか?

小学校3年か4年くらいの時に、初めて地域の選抜みたいなものに入って。その時からちゃんとサッカーをやり始めました。それまではしょっちゅう練習をサボったり、練習に行くふりをして違うところに行ったりしていましたが、選抜に入った後ぐらいから、どんどんのめり込んで行きました。
 

−スポーツ以外に小学校時代没頭したことはありますか?

そういうものがあればいいんですけど、サッカー以外には没頭したものがありませんでした。もう、ずっとボールを蹴っていました。それ以外のスポーツは何もできませんでした。球技もそうですし、野球もそんなにできないし、何もできなかったです。サッカーだけでした。
 

—そこからどういう経緯でヴィッセル神戸のジュニアユースに行くことになったのですか?

小学校6年生の時、ヴィッセル神戸のスクールに行っていた時に、たまたまジュニアユースのスカウトの人が見に来ていて、声をかけてもらったのがきっかけです。スクールの時にスカウトされました。でも本当はガンバ大阪のジュニアユースセレクションも受けていたんです。それは落ちてしまい、それでヴィッセルに行くことになりました。
 

—小学校時代のサッカーとサッカーの上手な子達が集まってくるヴィッセル神戸、違いはありましたか?

うーん…
 

—その中でも上手だったと(笑)

いや全然!中学の時はあんまり試合に出ていないですからね。ヴィッセルのジュニアユースにいた人達は、小学校の選抜で一緒だった人が多くてみんな知り合いのような感じでした。だからそこまで違和感とかはなかったですね。でも、土から人工芝に変わったのは、最初はめっちゃ楽しかったのを覚えています。毎日芝でサッカーできて本当に良かったです。
 

—中学時代、勉強はどうでしたか?

勉強は塾とかも全く行っていなかったのに、意外とできたんですよ。ヴィッセル神戸自体に「テストの点数を報告しろ」みたいなシステムがあって。だから結構中学の時は勉強も頑張っていたというか、そこそこできていましたね。問題は高校から(笑)

ヴィッセルユースに上がれなくて
帰り道で号泣した

—ユースに上がるか、高校をどうするかというところが結構大きい分岐点だったんですよね。

そうですね、ユースに上がりたかったので、上がれないって言われた時に…
ヴィッセルのジュニアユースに所属している人達は、夏に個別に呼ばれて、スタッフ何人かと親と選手と進路の面談をするんです。そこでユースには上がれない。と直接言われたので、結構きつかったです。帰り道の車でめっちゃ泣いたのを覚えています。めちゃくちゃ悔しかったですね、あれは。
 

—その中でどういう進路の選択肢がありましたか?

ヴィッセル神戸のスタッフの方に関西での強豪校、いわゆる滝二(滝川第二高等学校)とか大阪桐蔭とかは紹介できると言われて、実際推薦みたいなものは頂きました。でも滝二や大阪桐蔭に行っちゃうと、知ってるじゃないですか僕のこと。「ヴィッセルのユースの子や」っていうのを知られるのが嫌だったのです。
当時は、本当にガキで反抗心があったので、絶対にヴィッセルのユースより強いところに行きたいという気持ちがありました。
その時にちょうど、大前元紀選手などで有名な流経大柏高校サッカー部が全国大会三冠を達成していたんですよ。それを見ていたので、絶対ここに行きたいと思って。なんのオファーとかもなく、自分でここに行きたいと言って、わざわざ千葉までセレクションに行きました。
 

—親には反対はされませんでしたか?

いや、めちゃくちゃ反対されました。特に母親には「もう頼むから大阪桐蔭とか近場にしてくれ」と。試合も観に行けないからと言われましたけど、そこは僕が「絶対に譲らん」と言って、最後は父さんが「じゃあ行って来い」と。
 

—どんどんレベルの高いステージを求めいくというのはインパクトがありますね。入部した時はどれくらいの位置にいましたか?

1年の時はトップの試合に出るとかは考えられないほどの選手層でした。上下関係も強かったので。1年生が試合に出るとかはそもそもありませんでした。でも僕の同級生で一人だけ1年生の時からFWで試合に出ている子がいたのですが、その子だけはずっとトップにいましたね。
僕やみんなは1年生チームでした。大体3年生にならないと公式戦には出られないんですけど。だから1年2年の時は一試合も出てないですね。僕とかは特に一試合も絡んでなくて、3年になってようやくちょっと試合に絡みだした感じでした。
 

—やはり、監督の采配や選手との相性はありますよね。

そういうのも少なからずあったと思います。最後の高校サッカー選手権で僕たちの代は千葉県大会の決勝で負けたのですが、千葉県予選には僕は1分も出てないですからね。1試合も出られずに終わりました。それが悔しくてまた大学でやろうと思いましたから。本当に上手くいかないことばかりですね。
 

高校でも花開かず舞台は大学サッカーへ

 

—大学にはエスカレーター式で上がらず、スポーツ推薦で関西学院大学に?

それも僕はひねくれていたんですよね。「このまま上がるのは嫌や」と。ほとんどはそのまま流経大に行くのですが、他大に行く人は一つしかスポーツ推薦は受けられないみたいな縛りがあったんですよね。自分の中で結構考えて。関学は1回だけ見に行ったことがあったんです。その時に印象が良かったので決めました。
 

—練習を見て関学サッカー部のどのあたりに惹かれましたか?

練習に行った時に関学に阿部君(現ガンバ大阪)がいたんですよ。他にも結構なメンバーが揃っていました。ここで練習したら上手くなれるなと思ったので、割とすぐに決めましたね。
 

—関学サッカー部では1回生から試合に出場していたんですよね。高校ではなかなか機会に恵まれなかったのに大学では1回生からスタメンって。面白いですね。

1回生の夏くらいからずっとスタメンで使ってもらいました。もちろん、それは監督にしっかりみてもらえたのがありますが、高校の時から試合に出してさえもらえればやれるって思っていたのはあります。自分で言うのもなんですけど、一番練習はしていたつもりです。練習だけはして、自信だけはあったんですよ。結局高校は試合には出られなかったですけど。大学に行った時も本当に自信だけはありました。
そういうタイミングで自分を使ってもらえるかどうかは、監督とかチームの状況にもよると思います。ちょうど僕が1回生の時も、前期は全然勝てない状況が続いていました。ずっと降格争のラインにいたので、メンバーを変えようとなって1回生が3人くらいスタメンで入ったんです。そこからチームが勝ったり得点を決めたりして結果が出るようになっていきました。リーグ戦で14点くらい入れると、自信にもなりますよ。
 

—高校のサッカーと大学のサッカーとの違いは何かありましたか?

思っている以上に違いました。やっぱり、1回生でもチームの仕事っていうか、チームでの役割みたいなものが与えられていて。こんなに選手だけでやらないといけないのかって最初は戸惑いました。高校の時は、どちらかというとエリート高校だったので。全部スタッフがやってくれたし。練習は高校の方がきつかったですが。
 

—たしか、関学のサッカー部の練習は90分に集中して行うのですよね。

そうですね。一方で高校は6時間、7時間練習やってたりします。色んなことを考えながらサッカーをやるようになったので、そういう意味でも高校とはまるで違いましたね。
 

—監督に教わったことはありますか?

特に1回、2回の頃は監督に怒られてばっかりでした。サッカーの事だけじゃなくて、私生活の事とかも。練習中に同級生の小林成豪(現ヴィッセル神戸)と殴り合いの喧嘩をしたことがあって、その時に「お前出て行け、退部だ」みたいになったこともありました。その時も凄く怒られました。監督に怒られるというよりかは、先輩にまず怒られるので。そういうのが大学サッカーなのかなって思います。あんまり何も言わないんですよ、監督は。サッカーに関しても。なのにあの時は結構怒られましたね(笑)
 

流経大との因縁の対決。そして大学サッカー四冠へ

—それから関学サッカー部は強くなって、3回生のインカレで決勝まで行っていましたよね。

はい。その決勝の対戦相手が流経大だったんですよ。もう因縁しかないですよ。
 

—それは凄い。対戦相手には高校の同級生も多く出場していたのですね。

全員知り合いばっかりでした。僕が3年の時だったので、もちろん1つ上の流経大柏の先輩もいましたし、後輩もいました。同級生も試合に出ていて、すごく仲良い友達とかもいましたし。で、負けました。
 

—漫画みたいな話ですね。そして4回生は大学サッカー四冠。

3回生の夏の総理大臣杯の時は準決勝で、冬のインカレでは決勝で流経大に負けているんですよ。夏は僕がPK取られたんですけど(笑)。インカレの決勝でまたあたって「絶対リベンジする」って言って決勝で負けているんですよ。そこから大学4回生が始まっているので、もうどこにも負けなかったです。
4回生のインカレの準々決勝で、また流経とやりあったのですが、勝ちましたね。4年間で初めて流経に勝ちました。大学の4年間のドラマは出来上がっていますね(笑)この話、2時間位喋れますね(笑)

 
—これからプロ選手としてのキャリアを歩んでいくわけですが、プロに入ってまだ何かレベルの違いや環境の違いってありましたか?

目に見える凄い結果を残していないのでなんとも言えないのですが、やれるなっていうのは、ずっと自分の中にあります。逆にそれがまだもっと解かり易い形にして出せていないっていうのが、プロの厳しさというところかもしれませんが。あともうちょっとで何かきっかけを掴める気がしています。
 

—出場機会には恵まれているんですか?

そうですね。もっと出たいですけどね。でも試合に出られない時も、自分のことに目を向けてしっかり頑張れる、続けられるっていうのは、それこそ大学の時にしっかり考えながらやってきたことだと思う。そういう意味では、今は我慢して考える時かなと。
 

—プロサッカー選手としての目標はありますか?

やっぱりFWなのでゴールという形で今年中にもっとチームに貢献したいですね。得点数っていうのが全然足りていないので、チームの勝利につながるようなゴールを決めたいですね。あと僕は大卒で、サッカー界では若いって言ってもらえる年代ではないので、頑張って強いチームでスタメンを取らなければいけないと思っています。短いスパンの目標を考えたら、ガンバでスタメンを取って、ここでスタメン取れれば、代表にも近づくと思っています。
 

—最後に大学スポーツに取り組んでいる人達へ一言応援メッセージをお願いします。

これは関学サッカー部の同級生の井筒主将が良く言っていたことですけど。大学スポーツって最後の学生の部活じゃないですか。大学で部活をやる人って、大学までプレーしても試合に出れなかったり、試合には出ているけどプロに行けない人も多くいるんですよね。まわりのみんながサークル入って楽しんでいる中、部活で頑張る意味はあるのか?と考える事もできますよね。
でも、そういう人達がいるからこそ、直接試合に出られなくて、部に対する貢献度が少なかったとしても、その人が頑張ることによって部活自体が纏まるんですよね。そういう人が一人でも多い部活が、良い結果を出せると思うので。逆にそういうところが大学スポーツの一番良いところなのかなって、僕は大学4年間が終わった時にそれを強く思いました。だから卒業した後も、関学サッカー部の友達を凄く大事にしているんですよね。連絡をくれたら嬉しいし、自分からも連絡するし。そういう友達って学生の中であんまりいないと思うんですよ。そういうのを大切にして4年間を過ごして欲しいなと思います。
 

<編集後記>

今や男前で八重歯が可愛い有名人といえば、藤原竜也さんか呉屋大翔選手くらいだろう。呉屋選手はそんな端正な顔立ちからは想像できない程、メラメラとした闘争心を兼ね備えた選手であった。インタビューを通じて、決して平坦ではない彼のサッカー人生の一部を垣間見たように思う。
高校や大学への進路の決断、そしてガンバ大阪でのプロ選手としての挑戦。普通の選手は少しレベルの高いところで競技をすることを不安に思う。でも彼はいつも高いレベルで競技できることを心待ちにしているし、むしろ楽しんでいるように思えた。その裏には、常に誰よりも練習してきたという絶対的な自信と、好きなサッカーでは誰にも負けたくないという強い闘争心があった。
プロサッカー選手としてのキャリアは始まったばかりではあるが、決して長いものではない。早々にガンバ大阪での出場機会を獲得し、ゴールを量産して欲しいものだ。そしてプロ選手として活躍をすることは、たくさんのアスリートの夢の続きである。2018年はロシア、2022年はカタールとサッカーW杯は続いていくが、その夢の舞台で彼のような闘争心を持ったサッカー小僧を見てみたい。ぜひ、関西のスポーツに関わる皆さんも、大学や競技の垣根を超えて彼を応援してあげて欲しい。

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